続いてゆくのかな

という、フライング・キッズのアルバムタイトルが好きです。
「ずっと続いてゆくよ」とか言われると「本当かよ?」と突っ込んでしまう、ココロの狭い人間です。
ところで昨夜、MacBookPro のHDD(1TB)の整理をしました。
「ラジオ新千歳ー静岡線」のアーカイヴを外部HDDに退避させたら、なんと250GBもの空き容量ができていました。K-MIXで2007年から続いている日曜深夜零時からのこの番組。
いつもこのMacBookProにコピーして内容や音質・音量のチェックをしているのだけれど、以前のマシンの分を加えると、500GB分以上の回数を放送してきたことになるみたい。

とても幸せなこと。

「続いてゆくのかな」 といつもある種の覚悟をしながら、これからも一本一本、丁寧に作っていきます。
ラジオ新千歳ー静岡線に耳を傾けてくれるあなた。
そしてあなたが、

「幸せであるように」

  • 2014年07月28日(月)09時30分

ボツ原稿。

ライター時代のこと。

「千葉ウォーカー」がまだ月刊で出ていた頃、レストラン紹介記事を書いていた。柏の駅裏にあった「波利宝」という天ぷら屋さんで、天丼があまりに美味かったのでご高齢の女主人に「どうしたらこんなにからっと揚がるんですか?」と質問したら「そりゃあアンタ、女としてあがったら天ぷらもからっと揚がるのよ」と答えが返ってきた。
面白かったので、そのまま生かして原稿を提出したらデスクに「ふざけてんのか?」と叱られ、書き直し。今読み返しても、良く書けた記事だったのになあ。
先日用事があって柏に行ったら「波利宝」さんはなくなっていた。ネットで検索したら件の女主人はお元気で、余力のあるうちに、と店を閉められたそうだ。

もう一度、食べたかったな天丼。

  • 2014年06月21日(土)21時25分

こんな声に生まれたら。

こんな声に生まれたら、歌手になるしかないでしょ ! というあこがれの人がいて。
日本人では何と言っても沢田研二さん。
声音そのものと、日本語の美しさを完璧に兼ね備えている方。
ジュリーの曲で詞が聴き取れないものはひとつもない。ライブにおいてもそう。

自分の声はどうなんだ? 
正直、自信なかった。声にコンプレックスがあった。
「録音した自分の声を初めて聴いたときの違和感」は誰もが経験することだけど、僕はそれをずっと抱えてきた。

この5年ぐらいか、好きになれたのは。「悪くないんじゃない?」程度にだけれど。
とかく、自分のことを好きになるのは難しい。

  • 2014年06月21日(土)14時01分

僕の団地、はじめてのライブ

駅から北へ500mほど歩くと、郵便局と、生協と、洋品店と、公民館のある十字路。
公民館の名前は「ひまわり会館」という。中学1年から2年へ上がる春休みに、そこで初めて
自主コンサートのようなものを開いた。
当時は中学生でも、公民館を予約することが出来たのだ。ゆるやかな時代である。
歌った曲目についてはさすがに書けない。アリスとかチャゲ&飛鳥とか、あのあたり。
チケットを手作りして、200円だったか500円だったか、これを売りさばこうとしたのだが、これが担任の知るところとなり「中学生がお金をとってコンサートをやってはいけない」と言われてしまった(あたりまえ)。その代わり、公民館の使用料は、その先生がポケットマネーで出してくれた。

ラストの曲は
「燃えて散るのが花  夢で咲くのが恋」
というあれ。

良い歌だ。
こんな歌を自分で書けたら、満足して音楽をやめてしまうのじゃないか?
中学1年生がそう思うほど、
良い歌だ。

でも、
この歌の作者はその後もずっと歌を作り続けているし、僕もまた、これでやめても良い、というような歌は書けていない。
こんな調子でずっと歌を書き続けるのだと思う。
ひまわり会館のあった場所で、この夏には小さなコンサートを開いてみようと思う。

  • 2014年05月19日(月)18時10分

あいよ

あいよ

君に呼ばれたらいつだって
顔を向けて返事したいな
自分のことはひとまず置いて
元気な声で返事したいな
「あいよ!」ってさ
「どした?」ってさ
打てば響くように返事をするよ
なぜって君の 君の呼ぶ声は
一回、一回、大切だから

君に呼ばれたらいつだって
ぐずぐずせずに動きたいな
自分のことはひとまず置いて
何をして欲しいのか考える
「あいよ!」ってさ
「どした?」ってさ
要るものだけ持ってそこへ行くよ
なぜって君の 君の呼ぶ声は
一回、一回、本当だから

要るものだけ持ってそこへ行くよ
だから呼んでおくれ、遠慮せずに
打てば響くように返事をするよ
だから呼んでおくれ、困ったとき うれしいとき
「あいよ!」ってさ
「どした?」ってさ
びっくりするほど早く 君のとこへ
行くんだからね ちゃんと
行くんだからね


※このうたは、写真家・照井かおり さんのfacebookエントリに書いた。
彼女は一年に何回も東北へ何度も足を運び、人に会い、写真を撮っている。
彼女のフットワークの軽さと、やさしいまなざしのことを考えながら、
このうたを書いた。

  • 2014年05月16日(金)06時57分

見る音

オノ・ヨーコさんが若いミュージシャンを評して「ヴィジュアルで音をとらえているのが面白い」と言っていたのはもう5年も前だったろうか。ショーンを通じてコーネリアス/小山田圭吾などとレコーディングしていた時期なので、PCのDAW画面で波形を見ながらジャッジしていくスタイルが新鮮だったのだろう。あるいは皮肉だったのだろうか? ジョージ・マーティン氏の著書は「耳こそすべて」だったのだし。
いずれにしても、波形でダイナミクスやタイミングを判断しているのは僕も同じだ。確かに便利だし。でも、昔の方がヴィジュアルだったよなー、と思うこともある。それはアウトボードの配線。大学の頃から15年も使っていたYAMAHAの4トラックカセットMTRは一体型ではなく、センド→エフェクター→リターンの配線は文字通りケーブルで行っていた。行って戻ってという信号の流れが目で見えていたということ。対してDAWでのレコーディングは一応、音質の劣化がないことになっているので、どんな複雑な、あるいはリアルではありえないような配線もドラッグ&ドロップでできてしまう。その非現実っぷりのおかげで生まれる新奇な面白さももちろんある。でもやっぱり「ありえない信号の流れ」で整えられた音楽というのは、生きている人間の繰り返しのリスニングには耐えない気がする。エディットの自由度を上げていった揚げ句、初音ミクあたりに「ありえない努力」を課して歌のトラックを作ったり、ギターを弾いている人には考えつかないようなギター音色でのシークエンスを組んでみても、結局その「無理さ加減」は感動をそこなってしまうような気がする。古い考えかも知れないけれど。

  • 2014年03月08日(土)13時58分

街のレコード屋さんのこと。

 お正月にレコードを買いに行くと、おまけでポスターやカレンダーをくれた。1月4日、5日あたりのバスの車内には、LPレコードの入ったショップの袋と、筒状に丸めたポスターを持った中高生が結構いたように記憶している。お年玉で買うのは前から目をつけていたレコード。でもそれ以外で新譜を買うとき、試聴させてもらうのは普通のことだった。商品をカウンターに持っていき、「これ、かけてもらえますか?」とお願いする。店員さんが丁寧にジャケットからレコード盤を取り出し、スプレーしてクリーニングしてからお店のプレイヤー(ほとんどの店にあった)に乗せ、アンプのボリュームを上げる。僕は店員さんの動きを見て、レコードとオーディオ機器の扱いを覚えた。例えば針を落としてからボリュームを上げるとかね。
 で、2、3枚試聴してその中から1枚だけを買うのは普通だったし、ときには1枚も買わないこともあった。嫌な顔をする店員さんはいなかった。僕が鈍感なだけかも知れないけれど。四町目交差点と地下街の玉光堂、札幌駅近く西村ビルの弘栄堂書店、もっと小さな北区のレコード店、どこの店員さんも中高生に優しかった。
 大学に入ると買うレコードはほとんど洋楽になる。札幌にタワーレコードが進出してきたけれど、歌詞対訳や解説を読みたいレコードは国内盤と決めていたので、街のレコード屋さんとの縁は途切れなかった。Aというバンドのレコードを買うと、同傾向でよりマニアックなB、Cのものをお勧めしてくれる店員さんのいる店をよく利用した。プリファブ・スプラウトを買うとトーマス・ドルビーを紹介してくれる。コステロを買うとロックパイルを......という具合。こうして手に入れたレコードは今もCD化されていない貴重なものが多く、大切に保存してあって、たまにラジオでかけたりする。
 一時期、レコード屋さんのカウンターには、ギター弦やピック程度の小物も置いてあった。それはスーパーマーケットの中にあるような小規模店舗でも。替え弦をストックしておく習慣はなかったので、それで助かったことも何度かあった。
 やがて、僕はデビューして、別の立場でこれらの店にお世話になるのだが、それはまた別の話。

  • 2014年03月05日(水)08時31分

SM-58

Shure社のSM-58というマイクがあって、僕が音楽を始めた頃からあるロングセラー。全国どこのライブハウスにも必ずある。最近のシンガーを見てるとこのマイクを使った弾き語りや小編成でさえ、マイクが唇に付くほど近くてビックリする。バンドならバックの音を遮るために、この使い方は理にかなっているのだけど。58は近づけ過ぎると低音が強調される。で、その使い方がどのシンガーにも向いているとは思えない。声量や表現の仕方によって58の近接効果を生かしたり殺したりすることで、シンガーの個性が出るものなのに、誰もがオンマイクというのはとてももったいない。いつからこうなったのだろう。カラオケの影響か、ストリートライブの習慣が染みついているのか......。こういうことは本やネットではなくて、ディレクターさんだったり、ライブハウスのPAさん、あるいは先輩のシンガーなど現場の人に教えてもらって身に付けてきた。今の子たちはどうしてるんだろう?  ましてや、58さえも使いこなせないのに高価な「マイマイク」を持ち込んでいるシンガーを見てると......おせっかいかも知れないけれど、一言いいたくなってしまう。ウザがられてるかなあ。

  • 2014年03月03日(月)09時20分

あまちゃん紅白ー自給自足の「大きな物語」

今年の「あまちゃん紅白」は素晴らしかった、と僕も思う。その素晴らしさについては多くの人が語っているので、付け足すことはほぼ、ない。
 僕が思うのは、昨年までの紅白に足りなかったものが全国のお茶の間で家族みんなが共有できる「大きな物語」であり、今年はNHKが自給自足でそれを埋め合わせたということ。
 テーマというのはちょっと違う。いつのことからかは知らないけれど、紅白には毎年「テーマ」が設定されていて、今年のそれは「今、歌がここに、ある」だった。昨年、一昨年は東日本大震災を受けて「絆」とか「歌の力」とか、テーマが設定されてきた。でもそれは僕から見ると後付けのキャッチコピーに思えて空々しかったし、それは今年だってそうだ。
 僕の言う物語というのは例えば小林幸子の「く、苦節……。」というフレーズ(小林幸子さんは実際このフレーズを口にしたことはなく、モノマネ芸などで伝播したものであることはご存知の通り)。この人はこのような道のりを経て紅白の舞台にたどり着いたんだよ、という、歌手一人一人のライフストーリーに端を発する物語、それがベースだ。そこに、歌われる歌の内容である「物語」がプラスされ、さらに一年を競い合ってきたプロ歌手どうしの「人間地図」みたいなものが舞台上で加わって、紅白歌合戦は「大きな物語」に包まれ、ある磁場を発生する。それが観たいからみんながテレビの前に集まったのだし、家族はお互いの若干の情報交換で、ほぼすべての登場歌手の「物語」を読むことが出来た。「苦節」であろうと「シンデレラ・ストーリー」であろうと。
 そうした物語の消失を、誰かのせいにしようとは思わない。社会が荒削りなものから高度に洗練された消費社会になるにつれ、歌手やバンドは小粒になっていく。それは僕がこの20年ちょっと肌身で感じてきたことだ。また受け手も、安易なイメージ戦略を「ステマ」と嘲笑する術を身に付けてしまったために、物語の芽は早々に摘まれてしまい、大きく育たない。
物語を失った紅白歌合戦は、どんなに人選や演出を工夫しようとも家族みんなをテレビの前に集合させる磁場を生まない。
 そこで「あまちゃん」だ。半年かけて丁寧に紡いだ「物語」はあらかじめ「親子三代のマーメイド」という、三世代の共感を取り込む構造になっていた。さらに「80年代」という、2013年から見た絶妙の近過去がふたつ目の舞台として設定され、そこには「アイドル」という紅白歌合戦にもってこいの存在がある。奇しくも2013年は女性アイドルグループ全盛の、多分ピークになる年で、混在させてもなじみがよい。「世代をつなぐ」「地元と東京をつなぐ」構造はあらかじめ設定されており、あの15分間が強烈な磁場を発生させたのはその「幸せな結末」だった。
 といって、これは宮藤官九郎が、あるいはNHKの制作サイドが「紅白のために」用意したシナリオではないと思う。「あまちゃん」に関わるすべてのスタッフ、出演者が苦闘しながら、面白がりながら、朝ドラ156回を作っていく半ばで、おぼろげに見え始めたのが「潮騒のメモリーを紅白で」というヴィジョンであり、それを受けて紅白側のスタッフが様々な調整に走り回り汗をかき、15分という枠を獲得した上で、あらためて宮藤官九郎にボールを投げ返し、「第157回」の脚本は書かれたのだろう。それは二度とない奇跡のような出来事だった。
 そう、二度目はない。NHKが自給自足で「大きな物語」を紅白に持ち込める機会は一度きり。意図して今回のような奇跡をおこそうとしてもそれは視聴者から「ステマ」と嘲笑されるだけだろう。だからこそ、今回の「あまちゃんメドレー」で繰り広げられたポテンシャルの高い演奏と歌……そう、フルバンドと歌手が同じステージに立っていてこそ生まれるパワーって、往年の紅白はみんなこれだったんだよなあ、と思い出させてくれた。その熱が、僕ら次の歌を作り歌う人たちに伝えられ、宿り、今度は在野からの「物語の種」とならなければいけない、そう思うのだ。

  • 2014年01月04日(土)07時57分

LA. I Love You.

 ずっとシンガーソングライターで、「言葉ありき」「日本語ありき」の音楽をやってきた。だからジャズやフュージョンといったインストゥルメンタルの音楽には、今でもあまり詳しくはない。
 それでも「本物のグルーヴ」とか「インプロビゼーションの楽しさ」みたいなものが(なんとなく)わかる自分でいられるのは、1986年に、とある縁で3週間ほどLAに滞在できたおかげだと思っている。
 当時は日本人アーティストの海外レコーディングが盛んで、レコード会社の予算も潤沢だった。ある女性シンガーのLAレコーディングに同行することができたのは(予算は向こう持ち)今となれば信じられないこと。
 サンセット・スタジオをはじめとするLAの大型スタジオで、TOTO周辺のミュージシャンが豪華に揃ったレコーディングを見学し、休憩時間には一緒にビールを飲んだ。夜はBaked Potetoやボナペティといったクラブでジャズ、フュージョン系のセッションを浴びるように聴いた。レニー・カストロ、カルロス・ヴェガ、ヴィニー・カリウタ、マイケル・ランドウ、スティーブ・ルカサー......さらにキーボードのデビッド・ガーフィールド、ホーンのブランダン・フィールズら。そう、ブランダン・グループのベースはジョン・パティトゥッチだった。
 彼らの音はとにかく「楽しい」だけ。「気持ち良い」だけ。テクニックがどうとかコード理論がどうとか、難しいことを考えさせる余地がないほどライブが楽しい。ファンクの意味も、ブルーズの意味も、グルーヴするとはどういうことかも、言葉でなく、耳と身体で教えてくれたのが彼らの自由なセッションだった。
 客として来ていた著名ミュージシャンの飛び入り演奏など当たり前で、とても自由な空気がそこには流れていた。NYの事情はわからないけれど、LAのジャズシーンはそんな風だった。「ジャズとかフュージョンはカーラジオやコンポで静かに流すものじゃなく、生演奏で聴いてナンボ」という考え方は、その時から今まで変わっていない。とてもラッキーだったと思う。
 ただ、そのおかげで、帰国してからはいつもドラムとベースに満足がいかなかった。レコーディングでもライブでも。「グルーヴを感じる」ことは出来たけれど「グルーヴの生み出し方」を知らなかった自分のせいで、ミュージシャンの力量とは関係ないことが今ではわかる。
 散漫になってしまったけれど、このコラムを書こうと思ったのはLA滞在の際に現地でミュージシャンのコーディネートをしていたリチャード中野さんと、昨日SNSでつながることが出来たから。中野さんのほかにも僕のLA行きのために力を貸してくれた人たちがいたのだが、皆、他界している。カルロス・ヴェガも今は天国に。
それでも中野さんは、まだ当時と同じLAと日本の橋渡し的な仕事を続けていて、いつか会いたいですね、という話になった。
 LAに、また行ってみたくなった。

  • 2013年12月07日(土)14時51分